早川美奈子さんインタビュー(1)
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Q.視覚の状態について、教えていただけますか?
A.視力は「光を感じる程度」です。私は、20歳でほとんど見えなくなったんですが、それまでも弱視・・・“障害者といわれる部類の弱視”でした。
よく「私、目が悪いの」と言うと、「私もそうよ。近眼よ」ってみなさん言われるんです。ですが私は、そういう普通の人の基準を超えた目の悪さ。 「網膜色素変性症」といって、暗いところが苦手で、進行性、視野がどんどん狭くなっていくという病気です。
小学1年生にあがったすぐの頃から、ぶ厚いメガネをかけ、教科書はルーペがないと文字が読めませんでした。 黒板の字も、1番前の席に座ってもあまりよく見えない。 普通の人は目の前といえば、上下左右広い範囲で見えると思いますが、私は本当に目の前だけしか見えませんでした。 それが原因で小さい時から人に誤解を与えることが多かったと思います。
Q.どんな誤解ですか?
A.視野が狭いので、足元を見たらそこに夢中で、他は全然視野に入っていないんです。だから向かい側から知り合いの方がきても気付かない。 相手からすれば、ニコッとして会釈したし、私の顔はそちらの方に向いているのにも関わらず、全く無視しているように見えるから、「何よぉ」と怒ってしまわれる。
他にも「はい」って何かを差し出されたのに、差し出されていること自体に氣がつかなくて知らん顔してしまったり、そういう失礼な行為が日常茶飯事でした。 さらに、見えていても目をこらしているために「目つきが悪い」と言われたり。 わざとじゃないけれど、目の前しか見えないから、ぼん!って人にぶつかってしまうことも多くて、あっちでも「あ、ごめんなさい」、こっちでも「あ、ごめんなさい」。 中学生くらいの多感な頃には「なにあいつ、生意気」とか「態度わりぃ」と先輩に言われてしまったりしました。
Q.それでも見えるふりを続けたのですか?
A.それでも自分の中では、”見えるふりをしたい”という氣持ちがすごく強くて、白杖もつきませんでした。 目が見えない自分はすごく哀れだなぁと思っていたし、“目が見える人”に一歩でも近づかなくてはとか、見えるような振る舞いをしなくてはとか、そういうことに日々とても疲れていて、今ほどこんなにおしゃべりではありませんでした。 実は話すことは大好きなのに。
知らない人と会うとなると、一から私の目の見え方を説明しなくてはいけないし、いちいち説明するのは面倒だったし、説明しなければしないできっと誤解されるだろうし、そうすると“感じの悪いやつだなぁ”と思われて終わってしまう。
まわりとの、いろんな人との接点がすごく面倒くさかった。 あの頃の私は、あんまり感じのいい人ではなかったと思います。 小、中、高は普通学級に通っていました。友達や先生がすごく協力的で、仲良くしてくれたから、何とかやっていけていました。
高校生になると帰宅時間が遅くなってきますが、私は周囲が暗くなると、ぜんっぜん見えなくなっていたんです。 一歩暗闇の中に出ると、街頭や車のヘッドライトなど、光しか見えなくなってしまって、まるで黒い画用紙に白い絵の具をぽたぽたぽたっと垂らしたような感じでした。
バス通学をしていましたが、運行は1時間に1本だけ。 3時55分発を逃すと次は4時55分発。冬は4時55分になってしまうと、もうあたりが暗くて、バス停に行くのすら厳しい状態でした。
何とかバス停に行くことができても、私はバスの行き先表示が見えなかったの。 今なら平気で「すみません、○○行きのバスに乗りたいので、そのバスがきたら教えてください」って、周りで待っている人に聞けるけれど、その当時は聞けなかったの!恥ずかしくって。
見える人の振りをして歩いていたから、もちろん杖だってついていません。
Q.大変でしたね。
そんな私を支えてくれたのは、周りの友達たちでした。 いつも誰かしら友達がバス停に送ってくれて、「美奈子、○○行きがきたよ」と教えてくれるんです。 私が乗ったのを見届けてから、友達たちは帰る。本当にありがたかった。
高3になって、進路を考えた時、私は勉強嫌いだから、大学に行く気はさらさらありませんでした。 かといって、ルーペで文字をたどたどしく追っている私にできる仕事には限りがあります。 事務仕事や接客業は難しいだろうし、営業はさらにハードルが高いでしょう。
担任の先生は、親身でとてもいい先生でしたから、一緒に職業安定所に相談に行ってくれました。
そこで「障害者手帳を見せてください」と言われて、 「障害者手帳ってなんですか?」・・・もともと障害者手帳って知らなかったんです。そういうものがあること自体。
「いや、障害のある人は、障害者手帳を交付してもらうと、大きな企業に行けば行くほど、障害者を何%雇用しなくちゃいけない、という制度があるので有利ですよ」と言われて、 「へ~!」。
「じゃぁお前も作るか」 「うん」 ということで、初めて母と一緒に指定の病院にいって、交付のために検査をしました。
一通り検査し終わった後、私の目の検査なのに私は待合室に待たされて、母親だけお医者さんに呼ばれて話を聞きに行ったんです。 振り返ってみると、そこからしばらく母や妹弟が私に優しかったですね。
その時母は、お医者さんから、「お嬢さんは網膜色素変性症という目の障害です。今はこの程度見えているけれど、いずれは見えなくなる。期間は今はどうこう言えないけれども、だんだん見えなくなっていくのは確実です」って言われて、 「は~、うちの美奈子はいつか目が見えなくなっちゃうんだわ」って。 だから妹・弟にも「あんたたちもね、お姉ちゃんに優しくしなさい」って言ったらしいですよ。
Minako Hayakawa
早川美奈子さんは、底抜けのはちきれんばかりの明るさと人を惹きつけるエネルギーの高い方です。2006年、盲導犬アリス・ご主人・中学1年生の息子さん・小学校4年生の娘さんとの生活されていました。大手スーパーで電話交換手として活躍される一方で、視覚障害者と盲導犬との生活を、小学校の総合の時間に講演する、という活動を続けていらっしゃいます。
Q.それまでは病気だということを知らなかったんですか?
A.そう。お気楽な家族でね。それまでは、夜になると見えなくなったから、夜盲症だと言っていました。
Q.その検査の結果、障害者手帳が交付されたんですね?
A.はい、1種4級でした。私は6級ぐらいかなと思っていたので、「あぁ、結構見えていないんだ」と思いましたね。
*障害者手帳には1~6級があり、1級が一番障害の程度が重い。視覚障害でいえば全盲の方は1級。 さらにそれぞれの級に1種・2種がある。1種は介助者を要する。2種は単独でも日常生活が可能。
できた手帳を持って、再度職安に行ったら、今度は「特技がないのなら、職業訓練を受けるといいですよ」と言われて、高校を卒業した4月に、埼玉県の国立身体障害者リハビリセンターの職業訓練所の寮に入ることにしたんです。 そこで視覚障害者が学べるのは三療(さんりょう・・・針灸・あんま・マッサージ・・・)か、電話交換手かソフトウエア(パソコンの仕事)です。私は長電話は好きだし、おしゃべりも好きだから、ま、電話交換にしておきましょ!というノリで、電話交換手の訓練を選びました。
職業訓練を始める前に、まず障害者である自分が自立するための生活訓練がありました。 これは最低限、自分の身の回りのことができて、電車に乗って通勤もできるようになるためのもの。 点字。カナタイプ・目が見えなくても署名などの文字を書く機会は結構あるので、そのためのハンドライティング・お掃除・お料理・・・。 家事は結構やっていたので、身の回りのことをするのは苦ではありませんでしたが、”歩行訓練”が死ぬほどいやで、げっそりやせました。
歩行訓練では白杖を持たされて、“どこそこの○○のお店に行って、△△を買ってきなさい“なんていう課題が出されるんです。 頭の中に地図を描く、というのが視覚障害者の基本なんですよ。 まずは行き方を聴きますね。 ○○駅にきたら、改札の西口を出て、階段をおりたところにドーナッツ屋さんがある。 そこの信号を渡ったら右にいって、3軒目の角に○○っていう本屋さんがあるから、そこを左に曲がって・・・なんていう情報を全部頭の中の地図に描きます。 そうしたら自分ひとりで歩いたときに、「すみません、ドーナッツ屋さんは正面にありますか?」 「あぁありますよ」 「あ、ありがとうございます」って確認しながら信号を渡って、渡ったら右・・・、3軒目なんていっても何軒目かわからない。でも本屋さんって、結構本のにおいがするんです。
そうやって嗅覚や聴覚も全部使って、目的地にたどり着く。 でもね、路地とか袋小路って微妙なんです。ここは曲がり角だ、と思っても、実は一戸建の駐車場に入るだけの路地だったりとか。 一応確認しながら歩かないと、訳が分からなくなってしまうこともある。 で、「すみません、ここ本屋さんですか」 「あ、そうよ」 「あ、ここを左か」って。 でもね、その「すみません」って聴くことができなかったの。恥ずかしくって。 杖を持っているだけでも恥ずかしくってはずかしくっていやだったのに、見ず知らずの人に「すみません」て声かけて聴くなんて。いやでいやでしょうがなくって、3キロやせました。
Q.何がいやだったんですか?
A.とにかく恥ずかしかったんです。
杖を持って歩くなんて、私の今までの人生のスタンスに反するわけです。 目の見える人に思われたいのに、そんな白い杖なんて持ったら、“目の見えない人だ“って思われてしまうじゃない・・・それは当たり前なんだけれど。 それに「すみません」って聴いて、親切な人はいいんです。でも私、歩行訓練を始めた頃に、駅の改札口でもたもたしちゃって、すごく感じの悪い人に「めくらはひっこんでろ!」って言われてしまったことがありました。
もう、18歳のうら若き心が傷ついて涙がぽろぽろぽろって出てきちゃって。 「私ってめくらなんだ。めくらはやっぱり家でおとなしくしてなきゃいけないんだ!」と思って、すっごく傷つきました。
ぼん!と押されたりするだけで、「私ってこんなに街なかで邪魔なんだ。私って街なかのごみなんだわ」なんて思ったり。 すっごく氣をつけて、道の端を歩いていても邪魔になる時があるし、端だと思っていたら真ん中だったりする時もあるし、環境がうまく把握できないんです。
歩行訓練に出るたびにとても傷ついたように感じていました。 一方、すごーく親切な人もいるんですよ。
「あ、○○さんのお宅ね、こっちよこっち」って連れて行ってもらえると、「は~、うれしいな。ありがとうございます」と心から言えます。かと思うと、 「あ、そっち」とか 「あ、あそこ3番目」とか 「あそこにあんじゃん」 としか言ってもらえなかったり。
Q.あそこって言われてもわからないですよね。
A.“あそこ”とか“看板”とか“こっち”とか・・・。
でもそこから「“あそこ”じゃわからないんです」って言えないの。 「ありがとうございます」って、言って、またちょっと行ってから 「すみません」から始める。
すごく苦痛で、身も細る日々の訓練。 だんだん訓練が高度になってくると、電車に乗って、百貨店にいって先生のシェービングクリームを買ってくる、なんて指示が出たりするんです!
またそういう日に限って、騒音で電車内のアナウンスがよく聞こえなくて。 終点まで行くんだから、乗っていれば大丈夫だ、とわかっていても、ドキドキドキドキしちゃって、大変でした。
生活訓練が当時3ヶ月間。 それが終わってからの電話交換の訓練は6ヶ月でしたが、それはもう楽しかった~! 当然話していることが多い訓練でしたし、おしゃべりは大好きでしたからね。
Q.国立リハビリテーションセンター(以降、国リハ)に行ったことで、もちろん技術は身についたと思うけれど、それ以上に美奈子さん自身が変わったことや氣がついたことってどんなことでしたか?
A.私はそれまでずーっと、友達や先生にバスに乗せてもらったり、親や兄弟に手伝ってもらったり、一人でやる、ということがなかったんです。 周りの人は目が見えて何でもできる人で、私は目がよく見えない、色々やってもらわなくてはいけない人、という位置関係でした。
でも国リハに入ってからは、私より見えない人のほうが多かった。
全盲といわれる、光さえも感じない人が多かったし、弱視の人も、私と視力は同じくらいでも、視野の広さがそれぞれ違ったり。 視覚障害だけじゃなくて、聴覚障害や肢体障害の人もいました。
みんな完璧じゃなくて、どこかしら不自由で。
それまでの私は、いつもいつも
「やってもらえる?」
「ありがとう」
「これもいい?」
「すみません」
って言うのが当たり前だったのに、その私に対して 「やって」って頼んでくる人がたくさんいる。
その時は字が見えたから、 「ねえねえ美奈ちゃん、これ読んで」とか 「これ書いて」とか 「美奈ちゃん、○○に行きたいんだけど一緒に行ってくれる?」とか。
当時、昼間は少し見えていたから、全盲の人を腕につかまらせてあげて、連れて歩いていました。 でも、私は夜になると全然見えなくなってしまうので、今度は全盲の人が、私をつかまらせて歩いてくれるんです。 全盲の人は、白杖の使い方がすごく上手だから、夜はその子につかまらせてもらって歩いたほうが安全でした。
やってもらうばかりでもないし、やってあげるばかりでもない。
すごく気が楽だし、平気で頼める。 これまでのように、相手の顔色をうかがったりすることもない。まぁお互い顔色が見えない、というのもありましたけど(笑い)。 目が見えるから立場が上とか、見えないから下とかではなくて、対等で、その人の得意とする分野、その人のできることを持ち寄りあって、果たせることがたくさんありました。
“私って頼られる人でもあるんだ“という、それは新しい発見でした。 私は頼るだけの人で、人が私に頼ることがあるなんて、それまでは想像もつかなかったから。 少しずつ自分に価値をつけることができてきました。 ただね、国リハでは「そうだなぁ」ってすごく実感できましたけど、でも社会にでるとやっぱり障害者は障害者っていう扱いしかされないんだなぁ、と思いましたよ。
Q.お勤めしている頃はどんな感じだったんですか?
A.受付と電話交換が兼務、という部署に、電話交換専属で雇われました。 全部で3人の部署だったから、あとの2人がいつも受け付け。
私は人にはすごく恵まれていて、同期の女の子がとっても仲良くしてくれて、彼女と毎日のように買い物に行ったり、ご飯食べにいったり、飲みに行ったりしていました。 他にも、私を「目の見えない人」と差別しない男の人軍団がいて、とても楽しかったです。
Q.ひょっとして聴かれるといやなのかもしれないな、と思うんだけれど、その頃手術を受けて、よくなるはずだったのが、悪化してしまったと・・・。
A.そう。今やすっかり忘れてたいたけれどね。 仕事を始めてすぐの頃で、“私って結構お荷物だな、もっとてきぱきできればいいのにな”って思っていた時に、お医者さんに“白内障の手術はとても簡単な手術だから、すぐ直ります“って言われたんです。
私はずっと普通学校に通っていたから、障害に対する知識もほとんどなくて、網膜色素変性症(以降、色変)というものがどういう特徴をもっているか、たとえば目にメスを入れることで、どういうリスクが考えられるか、そういったことをあんまりわかっていませんでした。 その手術をすることによって、元々の目の障害の進行を早めてしまうこともあるということを、先生は話してくれたんだかくれなかったんだかも覚えていないけれど、ほとんど記憶にありません。
白内障って有名だし、近所のおじいちゃん・おばあちゃんがみんな白内障の手術をして、見えるようになるって喜んでいるし、それで私は勘違いしたんです。 私の場合は、白内障が治るだけで色変は直らないのに、見えるようになる!と思ってしまったんですね。 母と「なんだ、そんな簡単な手術だったらさっさとすればよかったよね」って。大きな誤解だったんですけれど。
会社に片眼1週間・両目分の2週間休みをとって、「今まで色々お世話かけたんですけど、目を手術したらもうちょっと、役に立つようになるんで!」って挨拶して、手術に臨みました。。
手術が終わって眼帯を取る時、よくドラマである、”眼帯をくるくるっと取って、先生が光を目に当ててね、 「あ~、見えるわ。先生!」 って感動のセリフを言う・・・真っ暗い中に光がピカ~ンて見える!”みたいな状況を想像していたのに、違うんです。
なんだかもやもや~っとした中に、ちょっと強めの光線が“もやぁ”とある感じ。 私はドラマのヒロインの気分で眼帯を取ったから“あれ?”っていう感じ。
先生が「あれ、見えない?」って聴くけれど、一応見えているから 「見えます」。 「光が移動したのわかる?」 「わかります」 「じゃ、今はまだ目の炎症があるから、視力ははっきり出ないけれど、何日かすると落ち着いて、視力も安定してくるから」と言われて、 「あ、そうか。何日かすれば見えてくるのか」と思い、毎日手鏡でいろんな角度から見るんだけれど、どう見ても手術前のほうが見えていたんです。
手術前には、病院の外を見ながら、今はこんな風に見えるけれど、手術後はあのビルの中にいる人の姿まで見えるのかな、とか色々想像していたのに、でもどうも違う。
段々「見えなくなっちゃった。おかしい!これちょっとシナリオどおりじゃない」って不安になってきちゃって。 あんまりにも私が鬱な感じだから、先生が 「あんまり心配だったら片眼はまた気持ちが落ち着いてからでもいいんだよ」 って言ってくれたんですが、最初に手術したのは私がメインに使っていない方の左目だったから、そのせいだ!と自分に言い聞かせました。 右目だったらシナリオどおりにいくさ、と思って、
「いや!受けます」
「いいの?」
「はい」
でもやっぱり同じでした。
もうご飯も食べる氣がしないし、ぼけーっとしてしまって。 退院してからも何だか家の中の風景がもや~っとしちゃって、世界が違うんですよね。全然見えないわけではないけれど、もやもやもやーっとして。
拒食症にもなって、母が「食べなさい、食べなさい」っていうから食べてみても、吐いてしまう。 もう抜け殻みたいでした。 家の中をぼーっと歩いているから、よく色んな物にぶつかるんです。ぶつかるたびに「あ~、私って、もう生きてる価値がない」なんて思いました。
母は仕事にいくのも氣が氣じゃなくて、しばらく一緒に休んでいましたが、ずっと休むわけにもいきませんから、仕事を再開したと思ったら、しょっちゅう電話をしてくるんです。 私はとても電話なんか出る気分じゃなかったんですが、母が「電話には絶対出なさいよ」って言うから、一応「はい・・」って出ると 「大丈夫?ご飯食べたの?何してるの、今?」 「んー・・・テレビ見てる」 「じゃぁ5時に終わって帰るからね。ちゃんとしてなさい」 「うー・・・ん」とか言って。
ある日すごく気持ちが悪くてお腹も痛くて、トイレにこもっていた時にまた電話が鳴ったから、もういいやーと、つい出なかったら、母が仕事から飛んで帰ってきたの。 「あんた!何で電話出ないの?」って。 その後もやっぱり電話に出られなかった時、今度は隣のおばちゃんが、どんどんどん!「みなちゃ~ん、いるの~?」って。
「はい・・」
「あ、いるんならいいのよ」って。
友達も心配して電話をくれました。 私自身はこんなに目が見えなくなってしまって、全然別人になってしまった気分なのに、友達にしろ家族にしろ、まわりの人の私への扱いは全然変わらなかったんです。
”美奈ちゃん、目が見えなくなっちゃったから、もう友達じゃなーい”なんて言う人はいなかったし、逆に見えなくなっちゃったからこそ、もっと協力してくれるようになった。
あぁありがたいなぁと思って。 そっか私いつまでもめそめそしていられないなぁ。 仕事もいかなきゃなぁと、とにかく復帰しました。 初日だけは母が会社の入り口まで送ってくれました。 心ない噂話も聞こえてきたりしましたけれど、例の同期の女の子や男の子たちは、週末ごとにみんなで色々なところに連れて行ってくれたんです。食事に行ったり、ディズニーランドやイチゴ狩り。とても励まされました。 目が見えないのはすーごくいやで、鬱だったんだけれど、ちょっとずつ脱していきました。 すごくいやだなぁ、と思う気持ちは、相変わらずとても強かったですけれど。
Q.障害というものをどういうふうに受け入れていったんですか?
A.もう全然受け入れられませんでした。いやでいやでしょうがなくて。 とにかく仕事をしている時も、目の見えない自分がいやで、ずーっといやだったの。
仕事が終わって、誰も一緒に帰る人がいなかったら、仕方なく大嫌いな白杖もついたけれど、大手町のオフィス街でかっこいいOLさんたちがカツカツとヒールをならして歩いているのに較べて、よれよれ歩くのがすごくいやで、いやでいやで。
結婚して仕事をやめて、息子を生んだけれど、やっぱり目が見えないのがすごく哀れでいやでした。 そんな時に「カルガモの会」という視覚障害者の母親の会があることを知って、入会したんです。息子が1歳くらいの時でした。 私みたいに苦労して子育てしている人は、他にもいるんだということがわかったことで、とても氣持ちが楽になりました。
息子と外出する時は、いつもおんぶをしていたけれど、赤ちゃんも少しずつ歩けるようになります。 息子も1歳くらいになると、私と手をつないで歩いて外に行きたがるようになりました。 私が一人で目が見えるぶって息子を外に連れ出したら、万が一息子が車にひかれちゃっても、まわりの人はただの私の不注意だ、と思って終わっちゃうだろうな、と思ったんです。 私が、目の見えない私が、子供を安全に育てるためには、まわりの人の理解と協力が必要だ、目が見える振りをしてる場合ではない!と。 それで初めて、「しょうがないから白杖つこうかな」と思いました。 やっぱりいやだったけれど、周りの人に“目が見えない”ということをどんどんアピールしていきました。
その後、近くの障害者団体から 「今度バザーをするからお手伝いしてください」と頼まれたんです。 「え!私に手伝ってほしいっていうの?」と、それは驚きました。
私はどこに行っても「目が見えないから座ってていいよ」って言われるのに。
「私なんか目が見えないのにやれることあるかなぁ」
「あるよあるよ、全然あるよ。早川さん器用だし」
「え~、本当?」
っておそるおそる行ったら、そこでやることはも~う私の得意分野。手を動かすのは超得意。口と手は良く動く。 たったかたったか値札をつけたりしていたら、「すごく助かる。すごく助かる」って、とても頼りにしてくれるようになったんです。 「あぁ、私の存在をこんなに喜んでくれる人がいる。こんなに助かる、助かるって言ってくれてる」って、それがすごくうれしかった。
同じ頼られるのでも、国リハの時とはちょっと違った。 今回、まわりには大勢健常者の職員がいて、その健常者の人たち以上に、私の作業が早かったんですから。 「私って目が見えないけれど、まんざらでもないかな」と、ちょっとずつちょっとずつ自分に価値をつけることができていきました。
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